《プレHIDEMIの物語 Vol.2》余白に息を吹きこむ―整えなおすという始まり

整えなおすこと、余白を生むこと

HIDEMIサロンへようこそ。
今日も小さな物語を綴ります。

都市にひそむ「余白」:渡良瀬遊水地の風景

今日、夫と行った渡良瀬遊水地。
緊急時に水を受け止めるために整えられた空間。
普段は穏やかな草原の風景で、ただの“広がり”にしか見えないかもしれない。
でも実際には、どんなときでも人々の暮らしを守るためにそっと準備されている場所。

令和元年10月の台風19号のときも、
この渡良瀬遊水地のおかげで私たちの暮らしが守られました。


いわばこれも都市の「余白」かもしれないな…と、しみじみ感じました。
そして、穏やかな草原から伝わる、確かな先人の慈しみの響き。

今日はその「余白」の話をしたいと思います。

整えなおすことと、余白を生むということ

HIDEMIを整えていくうちに
私の中でどんどん膨らんでいった「余白」。

気づいた余白の大切さをHIDEMIで提供したいと
今、改装工事をお願いしています。

普段はただの“間(ま)”のように見えるけれど、
訪れる人の物語を深く迎え入れる器として。
ただの空白ではなく、
何かが起こったときにやさしく抱きとめ、
訪れる人が深くリラックスできる余白。

その「余白」がもたらすものは、
HIDEMIに流れる深い静けさ―静域―そのものと思える。

そして、また「余白」ってなんだろう、と深く感じようとしていると、
アクセス・コンシャスネスの「スペース」とも、どこか響きあうと気がつきました。

アクセスコンシャスネスの「スペース」との響き合い

「スペース」と「余白」

似ているようでちょっと違う。

アクセス・コンシャスネスのスペースは、限りなく拡がる無限の広がり。
あらゆる制限を超え、すべてを受けとる広大な空間。
そのスペースに身をゆだねるとき、

私たちは自分の中にあった思考や感覚、感情の「塊」にも気づきます。

クリアリングしてもしても消せない――塊。

それらは、これまで必死に抱えていた自分の物語。

でもスペースがなければ、気づくことも、手放すこともできなかった――。

だから、まずスペースが必要なのです。
スペースに入ることで、初めて自分の物語をそっと見つめることができる。
そして、自分の中にずっと抱えてきた塊を、そっと整えなおす。
それはアクセスコンシャスネスのスペースに身をゆだねた先に、

やわらかく、静かに生まれてくる余白の気配を生み出します。

自分の塊を整えなおすとき、
過去の思考や感覚、感情のすべてがやさしく溶けていく。
無理に消さず、でももう責めることもなく、
まるで日本画の余白のように

「ここにあってもいい」と、そっと許される。

そして気づけば、スペースが“余白”という
やわらかな調和へと変わっていく。
塊があるからこそ、余白が生きる。
その歓びは深い呼吸のように、

私たちの内側に静かに浸透していくのです。

HIDEMIの余白は――
アクセスコンシャスネスのスペースが先にあって、
そのあとに生まれる、静かな許しと調和の場。

塊を整えなおし、そっと余白とともに配置する。

それは日本人の美意識とも響き合う、
深い感覚なのかもしれません。
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